ママたちの手記
手記その1
予定日より 一週間早く 長男「R」誕生。
第一子ということもあり 妊娠中 毎回のエコー検査を楽しみにしていました。
画面を見ても どこが顔やらおしりやら… 今はエコーも3Dだとか…。
「順調ですね」という先生の言葉にホッとして 無事産まれてくる日を待ち望んでいました。
その後 私は次男と長女を出産しますが 後から思うと Rを妊娠中 胎動は おとなしかったかな。 陣痛がきて いよいよ 出産! 普通分娩でしたが 想像していた元気な産声は聞こえず かすかな発声程度だったと記憶しています。
入院中 おっぱいを上手にふくめず 搾乳して母乳を飲ませました。
「まだ うまくないんだよ」とやさしく看護婦さんも言ってくれました。
寝てばかりの我が子を見ていると なんとなく「目がつりあがってるなー」とは思ったものの ダウン症の特徴とは知らず 退院が近くなりました。
先生から「あんまり泣かないでしょ。筋肉が弱いみたいだから念のため検査しておいで 紹介状出すからね」何の検査なのか…?
言われるまま 順天堂へと主人と向かいました。
「ダウン症の疑いがあるので 染色体の検査をします」「心臓の雑音もあるのでエコーもしますね」 ただ「はい、はい」と返答し 検査室へと パタパタ 看護婦さんのあとを追っていきました。 結果が出るのは一ヵ月後…。
会計を待っているとき ある看護婦さん「親の会とかもあるから」と言ってくれましたが その時の私は 口にこそ出さなかったけど「まだ決まったわけじゃないじゃん!!」と素直に受け止められなかった。

心臓に穴があるのは エコーで はっきりしたので 県立こども病院へ紹介されました。 このときの私は まだ無知で(汗)
ダウン症の合併症で 心臓疾患があると 思ってなく「心臓は手術で治る!」「どうか 染色体に異常がありませんように」と結果を待っていました。
その間 こども病院での診察、検査で 心室中隔に10mm。
心房にも5mm 穴があり 手術は 急ぎたいとの事でしたが 順番を待つしかなかったのですが キャンセルが出て 生後3ヶ月の時に 手術を受け 経過も良好で 今に至ります。
染色体検査の話に戻りますが 結果はやはり21トリソミー。
ダウン症でした。この時の染色体の写真は あとで(生後1年くらいの時かな?)記念にもらってきて アルバムに収めました^v^
告知を受けた時は そりゃあ びっくりで 涙があふれ出てきましたよ。
あの時 どうして 泣いたのでしょうか。
「障害児を生んでしまった」「なんで私が…」そんな気持ちだったのかもしれません。 だって まだ 世の中で元気に暮らす ダウン症の方々を だれ一人 知らなかったから。
医師は「こういう子は 育てやすいんですよ。おとなしいし。困った事や心配な事があったら いつでも電話くれていいからね」とやさしく言ってくれました。
帰りの車中 主人との会話は何も覚えてません。

赤ちゃんが家にいて 本当なら毎日幸せな気持ちに満たされたはずでしょう。
私の場合 笑顔になれる事はなく しばらくは 泣いてばかりでした。
それでもちゃんと 世話はしていたんです。 おなかがすいたと 泣くわけでもなく 寝てばかりの子が 息をしているのか ドキッ!としながら。
ある晩 また泣きながら授乳していた時 一生懸命 哺乳ビンを吸いながら 息子は 私と 目を合わせました。
その目は 「ママ なんで泣いてるの? ボクがいるの悲しいの? ボク 生きてるよ」と言ってるような 強い目線でした。 そして 障がいを持つ子を産んでしまったという罪悪感を 見透かされてる気になりました。
「そうだね 泣くのはおかしいね。生きてるだけでいいし なんとかなるさ!」
もう泣かないと決め 頑張るのもやめ 「なんとかなるさ!」と気持ちを楽にして「この子の生まれた意味は必ずある」と 前を向こう!顔をあげよう!と誓った夜でした。

その後 県東部の療育教室 三島市の障がい児母子教室 親の会(ゆずり葉) の仲間に出会い 心配事を相談したり お互いよろこび合ったりして 息子は現在小学校6年生。今ではすっかり反抗期(汗)
「生きているだけで」なんて言ってたのに できる事が一つ増えると欲も出るもので…(汗)

このホームページ立ち上げのお話をいただき 役員さん達の熱意に最敬礼! そして感謝。
こうして12年前のことから ひとつひとつ 思い出し 振り返る機会をいただき「あんなにかわいかったのに…」なんて 12年間の成長を感じています。

幼児期、幼稚園、小学校、お友だち、兄妹、勉強、地域、行事。
武勇伝は てんこ盛りあるけれど 今回は「息子が生まれた時のこと」という事なので このへんで^v^

きれい事じゃないんだよね〜(汗) 産んじゃったもの 育てるしかないじゃん。前向いてさ!!
でもね 健常児を育てるよりも いっぱいのよろこびがあるんだよ^v^
手記その2
妊娠13週目の健診、前より大きくなっている超音波の写真を見て喜んでいる私に先生が「悪い知らせがあります・・・ダウン症の可能性があるので、検査するかどうか旦那さんとよく相談してきて下さい」と。
エッ?まさか私が・・・ 信じられない気持ちで家に帰りました。
でも、この子をおろすなんて考えられない。
私は婦人病を持っていて、妊娠しずらいと言われてました。
やっと授かった1度目は流産してしまい、その1年後に授かった命でした。
私は37歳、もう次はないかも知れない と思い、検査をしませんでした。
ダウン症の知識などまったくなかったので、インターネットで調べたりしました。
でもダウン症と断定せれた訳じゃないので、その心配よりママになる喜びがいっぱいで、幸せな妊娠生活を送りました。

予定日3週間前、2300gで娘は産まれました。
2時間後、大学病院から救急車に乗って先生がきて、娘を連れて行ってしまいました。
娘は低血糖で3日NICUに入り、その間に染色体の検査を受けました。
結果を聞く寸前まで、「ダウン症じゃなかったです」と言われる場面ばかり想像してました。
「娘さんはダウン症です」 そう言われた時、泣くでもなくただ呆然としてました。
「寿命は30〜40歳、白血病になる確率が他の人より多い」 その言葉で涙が溢れました。 それから2週間程の記憶はありません。私の子どもが障がい児・・・なんで・・・・・・という思いで泣いていたと思います。
でもインターネットでダウン症を知っていくうちに、どんどん前向きになってきました。
寿命はもっと長いじゃないか!! 知識の乏しい先生だな と思いました。
この子は何でもゆっくりなだけで、命に関わるような病気もない。やりたい事はやれる、何処にでも行ける。
ダウン症として生まれてきたのだから、ダウン症の人生を生きればいい。ダウン症は不幸ではない と思うようになってきました。
ただ私の両親には・・・・・ 
母は娘に会う度「可哀想に・・・」と切ない顔をしてました。眠れず毎晩泣いていたと思います。
私は若い頃から親に心配ばかりかけてきて、また心配かけてしまってる事で心が痛かった。
私は最初で最後という思いで、「せっかく孫が生まれたのにダウン症で、心配ばかりかけてごめんね。
でもこの子は可哀想な子じゃないんだよ。他の子とは違うかも知れないけど、それが不幸ではない。
優しいじぃじ、ばぁばがいて、すごく恵まれた環境の中に誕生して・・・この子はとても幸せだと思うよ」と。
「ごめんね」と謝るのは、娘の誕生が悪い事のようで嫌でしたが・・・。
それが今では毎日のように娘に逢いに来て、1日でも逢わないと「久しぶりだね〜逢いたかったよ〜」と。
じぃじ、ばぁば、娘と3人で出かける事も多く、「ダウン症なんて何とも思わないよ〜 生まれてきてくれてありがとうね〜〜」と言ってます。
周りのみんなが娘をすごく可愛がってくれて・・・私は、パパはもちろん、両親、兄妹、友達にすごく支えられてると思います。とても有難いです。

娘は4ヵ月から障がい児教室に行き、そこで先輩ママから療育施設を教えてもらい、このゆずり葉も教えてもらいました。
小さいうちから色んな所に行き、障がい児はこんなに忙しいんだ〜と思いました。
でもお陰で娘は、沢山刺激を受け、集団に慣れました。
同い年が集まる健康診断に行くと、「娘の方ができてるじゃん」って思える場面もあります。
私もゆずり葉の行事に参加するようになり、ママ友も沢山でき、先輩ママの話も聞けてとても心強いです。
最初、集団の中に入るのは勇気がいりましたが、色んな教室に参加し、ゆずり葉に入って本当によかったと思います。

娘は寝起きから歌を唄ったり、踊ったりしてます。
笑顔いっぱいの幸せな日々を過ごしています。 娘が生まれてきてくれて、本当によかったです。
娘は4月から幼稚園に通います。
手記その3
我が家は父、母、兄(小5)、娘(特別支援学級2年)の4人家族です。
娘は予定日より1ヶ月早く2198gで生まれてきました。生まれた時、「目が大きい子だなあ。」と思いました。心音が弱いとのことで 娘だけ沼津市立病院のNICUへ。主人はこの時「ダウン症の検査をします。」と言われたのですが、産院から退院するまで私には言 いませんでした。産院にいる間、主人が沼津市立病院で看護師さんが撮ってくれたコメントつきの娘のポラロイド写真を何枚か届けて くれたのですが、写真の顔が「なんかちょっと違う?何でいつも口がぽかんと開いているの??」と会えない分不安になっていました。 産院を退院して、娘のお見舞いに行く途中、主人が娘がダウン症かもしれないと話し出しました。話を聞いてもイメージがわかず、先 生が淡々とダウン症の説明をしてくださったのですが、頭に入ってきませんでした。
検査の結果が出るまでの1ヶ月は本やインターネットで調べ、一生懸命ダウン症を否定するのですが、顔を見るたび、ダウン症の身体 的特徴(小指の関節がひとつ少ないとか、顔つきとか)を確認するたび、ミルクを吸う力のなさを実感するたびに、どうしよう、どう しよう・・・と不安になりました。入院は1ヵ月になり、検査の結果ダウン症で、心臓に異常があるので静岡県立こども病院に紹介状を 書いていただき退院となりました。
県立こども病院に入院するまでの間、家に帰ってきた娘の世話をしていても、眠ってばかりで反応の乏しい娘をボーっと見つめるばか り。お兄ちゃんと一緒に遊んでいても心はどこかにいっていました。誰とも話したくない、友達にも会いたくない、外に出るのもいや で完全に引きこもりでした。双方の両親は(相当ショックだったのでしょうが)思いのほか受け入れてくれて、はげましてくれました。 けれど、私の心と頭は考えることを拒否していて、ただ息をしていただけの毎日でした。
生まれて3ヶ月で心室中隔欠損症と肺高血圧症の手術があり、母親失格ですが、手術が失敗すればいいのにと思った時もありました。 引きこもりつつも、お兄ちゃんの入園で外に出なければいけなくなり、保健婦さんの薦めで沼津のすこやか教室に恐る恐る参加しまし た。同じ位の年齢のダウン症児やお母さん達に接するうちに、娘を外に連れて行くことが増えてきました。この頃やっと娘のことを 友達やお兄ちゃんの幼稚園のお母さん達に話せるようになってきました。

転勤族のため娘は生まれたのは裾野市、その後愛知県豊田市、三重県鈴鹿市、現在御殿場市と引っ越してきました。
裾野市では1歳位から御殿場市の富岳学園のコアラ組に通い、豊田市では2歳から豊田市こども発達センターのあおぞら教室に1年通 いました。あおぞら教室は発達に心配のあるお子さんが週2日ぐらい母子通園します。
3歳の4月からの1年間、同じ発達センターの「ひまわり」に単独通園しました。ひまわりは知的発達に遅れがある子ども達50人 が6〜7人のクラスに分かれ、1クラスに担任が2人つき日常生活の決まりや、生活習慣が身につくように指導してくれます。娘は毎 日ひとりで通園バスに乗り、排泄、着替え(ボタン)、食事を身につけました。
ひまわりは1年で卒業し、年中の時は地域の子ども園に入園しました。健常児さんたちとの集団行動でしたが、加配の先生についてい ただいたので心配はありませんでした。お友達がいっぱいできて、自発的な行動が増えました。
発達センターの中には、作業療法、言語療法などの療法部門と児童精神科、小児神経科、小児歯科、小児整形外科などの診療部門があ り、豊田市にいる間は発達に関することはほとんどお世話になっていました。
年長の1年は鈴鹿市の幼稚園で過ごしました。ここでも加配の先生がついてくれました。
学校までの距離と同じくらいの距離を毎日歩いて帰りました。1日の流れがスムーズにできて、ここでもお友達がいっぱいできました。 鈴鹿市には療育施設がなかったので、津市の草の実リハビリセンターに作業療法、言語療法、整形外科と月1回通いました。
小学校入学から御殿場市に移り、特別支援学級で学んでいます。1年生の1年間は登下校に母が付き添いましたが、2年生になり、朝は 登校班で帰りは下校班で母が付き添わなくても行けるようになりました。言葉に興味があって本をよく借りてきます。数字の概念はま だまだですが・・・。宿題は毎日ありますが、自主的にやり終えてから遊びに行きます。運動会やマラソン大会も学年と同じ距離を走り ます。
作業療法と言語療法に月1回伊豆医療福祉センターに通っています。まだまだ言葉が不明瞭で???の会話なのですが、少しずつ聞き とれる言葉が増えてきました。

周りの方から「大変ねえ」という目で見られているのかなあと感じることもありますが、別に普通の家族です。ダウン症だから大変で はありません。(お兄ちゃんのほうが反抗期なのでよっぽど大変)怒るし、泣くし、ケンカするし、大声で笑うし。娘の進化にしょっ ちゅうびっくりします。かわいい時もムカつく時もある私の娘です。

引越しを繰り返して感じることは、どの土地でもダウン症児とお母さんが明るくて、やさしくて、勉強になります。そして「大丈夫! 」って。
手記その4
3日間の長い陣痛を経て、ようやく産まれてきた待望の第一子。
全身紫色で目がつりあがっていて、分娩台の上で初めて息子に対面した瞬間「あ、ダウン症だ」とすぐにわかりました。
パパや他の家族たちには伝える事ができず、不安な気持ちのまま一晩過ごし、次の日、パパが面会に病室に入って来てすぐに、先生た ちがぞろぞろと入ってきて「ダウン症の疑いがあります」と告げられました。
それからしばらくして、酸素不足、黄疸、低体温、などいろいろな理由で、息子は新生児室からNICUに入院することになりました。

赤ちゃんが生まれて、忙しくなるはずの私の生活は、息子より先に退院し、午後に息子の面会に行っておっぱいを届けて帰ってくるだけ。 あとはなにもすることがなく一日中泣いて過ごしていました。
これから先のことなんて考えられず、頭に浮かぶことは後ろ向きなことばかり。
重い十字架を背負わされたような、そんな気持ち。私の人生はどうなるんだろう。これから先楽しい事なんて何もない。周りは元気な赤 ちゃんを産んでいるのになんで私ばかり。前向きになんてなれずに絶望感でいっぱいでした。
赤ちゃん用品を買いに行くのもつらかったり、オムツのCMをみるのもつらかったり。元気になる日なんて、もう二度と来ないと思って いました。

仕事をすることが大好きだったので、育休後すぐに仕事に復帰する予定でしたが、じっくり息子と向き合ってみようと復帰はせずに子育 てに専念することにしました。
息子のことはかわいいし大切に思っていましたが、共に生きていく決心がまだしっかりできていなかったように思います。あのとき、し っかりと向き合い前向きな気持ちになれていたら、迷わず職場に復帰していたと思います。
息子と一緒に通院したり、療育に通ったり、幼稚園や保育園の園庭開放に行ったり、障害児の教室に行ったり、ゆずり葉の行事に参加し ているうちに、私にも息子にもたくさんのお友だちができ、先輩ママのお話がきけたり、立派に成長しているダウン症のお兄さんお姉さ んたちに会う機会ができました。
その日々の中で、私は様々なことを教えてもらい、お友だちと悩みを相談したり共有したり。そんなふうに過ごすうちに、少し遅れてや っと私の楽しい子育て生活が始まっていったような気がします。

息子が2歳になってから、今後の就園にむけて園庭開放や母子通園できる療育施設、保育園の一時保育を利用して、集団生活の練習を始 めました。
息子は新しい場所に慣れるまで時間がかかったり、物をすぐに投げたり多動傾向があったり、偏食がひどかったり、このままでは集団生 活は難しいのではないかと考えていました。
またダウン症ということで、希望した所に受け入れてもらうことはできるのかという不安もあり、息子という存在を前もって保育園や幼 稚園に知ってもらい、息子について時間をかけて理解してもらいたいと思ったし、私も息子にとってどういう環境が合っていて、楽しく 過ごせる場所なのかということを、一緒に出かけながら時間をかけて考えて決めたいと思ったからです。
息子の様子をみながら途中で保育園の一時保育にしぼり、先生方にも協力していただき、少しずつ保育園に慣れていくことができました。 最初は保育園に連れて行くと、真っ赤な顔をして手をグーに握り締めてひとりで立ったまま泣き続けていた息子、お迎えに行くとおんぶ ひもを持っていろんな先生に差し出しながら保育園の中をさまよっていた話を聞き、胸が引き裂かれそうになりました。先生方は、おん ぶし続けていても息子のためにならないと、心を鬼にして接してくれたと話してくれました。
途中で保育園に連れて行くのはまだ早いんじゃないか、集団生活はまだ無理なのではないかと、連れて行くのをやめて引き返して家でこ のままずっと一緒にいられたらどんなに楽かと思った事も。
それでも胃をキリキリさせながら連れていき、通い始めてから半年ほどでようやく慣れ、息子も楽しそうに通えること ができました。
バイバイのときに泣かなくなり、そのうち私を振り返らずにお友達の輪の中に突進していき、ニコニコしながら先生に抱きつき、徐々に 息子にとって居心地のよい場所になっていくのがわかりました。息子の楽しそうな様子を見て嬉しくてウルウル、周りのお母さんに見ら れると恥ずかしいので、涙がこぼれないように必死に抑えながら車に戻ったりして(笑)
偏食がひどく、食べられるものの数のほうが数えるほどで食べられないものが大半だった息子が、保育園の給食をほとんど毎回食べてく るようになりました。
私ひとりでは決してできないこと、たくさんの方が私たち親子に関わってくれ、息子の子育てに参加してくれることによって、息子の可 能性や世界が広がっていくことを実感することができました。
集団生活をおくるにあたっていろいろと心配の多かった息子でしたが、1年半の練習を経て、園にもお友達にも先生方にも慣れ、この春 から保育園に通う予定です。
お友達と仲良く遊び、多くのことを学び、楽しく集団生活が送れるといいなと思います。

息子を産んだ次の年に年子で下の子を授かり、現在2人の男の子の子育てに毎日追われ、忙しいけど充実した日々を送っています。

たくさんの人たちに愛情を注いでもらい、息子は毎日楽しそうに生活しています。
周りの友人や親戚はいつも息子の事を気にかけてくれ、一緒に成長を喜んでくれ、息子に対して優しい気持ちを持ってくれていることが 本当に嬉しく、心から感謝しています。
これから先、もしかしたらつまづくことがあるかもしれないけど、楽しみなこともいっぱい。
なにかあったらそのときに考えて、まずは楽しく過ごすことを考えて生活していきたいと思います。
あの日告知を受けて病室で泣いている私に、家にこもって泣きながら子育てしている私に「大丈夫楽しくやってるよ」と教えてあげたいです。
手記その4
中学2年生になった息子が通っているのは、校区の中学校(2つの小学校の児童が入学します)の特別支援学級です。以前は普通学級し かありませんでしたが、5年前に障害児のお母さんたちが署名運動等をして新設され、G組としてスタートしました。
昨年のG組は3人でしたが今年は5人になりました。担任の先生は1人ですが、教科の先生が入って1週間に1時間ずつ英語、数学 、技術、家庭などの授業をしてくれています。通常は1時間目の運動などの後に、国語、数学、作業学習(ボルトの組立、ビーズ通し などの手指の巧緻性を高める作業、紙すき、畑の作業)、音楽、美術などが計画されています。

校外学習としては、昨年は市役所と図書館に行きました。事前にいろいろ調べ、担当者への質問の仕方なども学習しました。出掛け た当日は電車やバスの利用の仕方も学び、昼食はレストランに入り、予算内で食事をする勉強もしました。息子は予算オーバーする ほどたくさん注文し、先生も驚いていました。

職場実習もあります。1、2年生は1日ですが、3年生は1週間自力で通勤します。

通常学級との交流は息子の場合、美術の授業と給食です。
学校行事は全員、交流学級に入ります。2年生は5月の終わりに2泊3日の自然教室で長野に行きました。1泊は民家に泊まるため 、いろいろと心配でした。荷物についても細かく説明していたところ、本人から 「おかあさん、そんなに心配しなくても大丈夫だよ!」と頼もしい一言がありました。

小学校は普通学級だったので、同じ小学校だった生徒は息子のことをよく分かってくれています。普段の交流については何とか問題 は無いと思っていますが、体育祭だけは気がかりです。クラス対抗のリレーや種目があるので毎年ハラハラしながら応援しています。

部活動は卓球部に入っています。土日の練習には参加していないので、試合には出られませんが、平日は5時まで練習に参加してい ます。帰宅すると疲れていて、宿題の途中で眠ってしまうこともあります。
宿題は、日記と漢字練習や算数ドリルです(算数は苦手で小2のドリルをやっています)。
日記の文章はうまく表現できないことが多いのですが、笑ってしまう事やクラスメイトとの喧嘩の事など学校の様子を知ることがで きます。

学校が大好きなのでこれからも毎日楽しく中学校生活を送ってくれることを望みます。
手記その6
 私の弟は、重度の知的障がいがあります。健康な赤ちゃんで産まれましたが、2歳の時、髄膜炎を患い、脳に障がいを残しました。 現在は三島市の福祉施設に入所しています。体は大きく見た目はおじさんですが、2歳のころの知恵で止まってしまったようです。

 弟のお陰で、養護学校や、福祉施設を身近なものとして育った私は、障がいのある子どもたちとかかわる仕事がしたくて、短大では 社会福祉学科を専攻し、障害者福祉の勉強をしました。

 第2子である、次男を出産したのは、2004年(平成16年)7月8日の深夜でした。産声をすぐにあげなかった次男は、すぐに NICU(新生児集中治療室)に連れて行かれました。それから半日後、面会に行った私たち夫婦に、医師から「染色体異常の疑いがあります。染色体異常のもので何かご存知のものありますか」と聞かれました。頭の中に「ダウン症?ダウン症?ダウン症?」という言葉がぐるぐる渦を巻いていました。私の口から「ダウン症とか?」という言葉が出た後、医師は、YESともNOとも答えませんでした。その瞬間、私の目から突然ぽろぽろ涙が落ちて、自分でも驚きました。夫に肩を抱えられ、しばらく、保育器の中に管をいっぱいつけられて眠る次男との面会を終え、NICUを後にする時、私は夫にこう言いました。「ダウン症の子って、人なつっこくてかわいいじゃない。知恵もつくし。大丈夫、大事に育てよう」弟の施設でかわいかったダウン症の子たちのことを思い出していました。次男が私を母として選んでくれた。妊娠初期から中期にかけて、数回出血があり、不安だったあの時。必死でお腹にしがみついていたんだ。大事に愛情いっぱいで育てよう。そう心に誓いました。
次男はその後、十二指腸に狭くなっているところがあることが分かり、生後3週の頃、県立こども病院に転院となり、手術を受けます 。家業が一年で最も忙しい時期でした。病院までの往復4時間は、冷凍した母乳をクーラーボックスに入れて、自分で運転して1日お きに通いました。この車での時間、今思うと一番辛い時間だったように思います。現実から逃げ出したいような思いもありました。保 育園に預けている長男を迎えに行く時間ぎりぎりまで面会をして帰る道のりは、後ろ髪を引かれる思いでした。色々な思いで、押しつ ぶされそうでした。でも、これが現実です。次男の退院を待ち遠しくしている長男は2歳半でした。退院の日、初めてのチャイルドシ ートに丸まるようにして座る弟の手を、ずっと握って帰ってきた新米お兄ちゃん。このお兄ちゃんに、どれだけ励まされたかわかりま せん。

こんな私のことを数ヵ月後母は「あなたは強いね」と言います。私は強いのでしょうか。意地を張っているだけかもしれません。でも もしそうだとしたら、私を強くしてくれたのは、両親であり、他ならぬ、たった一人の弟です。弟のお陰で、障がいのある子たちをか わいいと思って育ってきました。母となり、自分の子が、病気で障がいを持つかもしれない、障がいを持った子が産まれるかもしれな い、そんな危機感を、常に持っていましたし、怖かった。それが現実になってしまったのです。でもその現実を、強く、受け止めるこ とができたように思います。障がいのある者が身近にいることは、必ず、周りの人たちのプラスになります。


さて、現在の次男はといいますと、地元の小学校に特別支援学級を新設していただき、晴れて、長男と同じ学校に入学できました。先 生1人、児童1人のクラスです。仲間がいないことが、最大の心配でしたが、児童数の少ない学校であることが幸いし、たくさん交流 させてもらって、マイペースで楽しくやっているようです。

家には、賑やかな兄弟がいます。4年生の長男には「保育士か作業療法士になれば?」とよく冗談で言いますが、本当に弟と妹のお世 話が上手なお兄ちゃんになりました。4歳の妹は、双子のような、ちょっと最近は越されちゃったかな、というところも多々あります が、一番の遊び相手です。1歳10カ月の弟は一番目が離せない時期。次男のことを「あーちゃん」と愛らしく呼び追いかけます。

母はよく「弟が多動で、あなたに兄弟をもう一人つくってやれなくて申し訳ない」と言いました。その影響でしょうか、自分は子供を 3人は産みたい、もし障がいを持つ子がいたら、その分たくさんの子を、という強い思いがありました。私は4人の子供に恵まれたこ とが最大の幸せです。大きくなって、それぞれが支えあって生きていってほしいと願わずにはいられません。




inserted by FC2 system